年末になると屋根の修理を手伝うことになっているのか?
大工でサーファー友達の実家が雨漏りしているから屋根の張替え作業を手伝って欲しいと頼まれたのが一昨日の夜の事。
腕の腱鞘炎が良くなってきているので大事にしたい気持ちもあったが雨漏りして年越しは気分良くないだろうし忍苦代まで用意してくれて自分に声をかけてくれた友人の気持ちが嬉しくて二つ返事で引き受けたが自己責任を踏まえたら慎重にならないといけない。
絵のオーダー作品を何点も抱えてお待たせしている方々がいるのに他の仕事や要件で腕を使い過ぎて筆を持てないのでは本末転倒である。
抱っこしないと泣き止まない息子もようやく1歳6カ月になって歩けるようになり、ずいぶん楽にはなったがいまだ毎日が抱っこの連続だ。
家の2階で仕事してるので泣かれ続けたら仕事にならないし嫁も疲れて寝ているのだろうと階段を降りてみると泣き腫らしてのたうちまわってる赤児をなだめて抱き上げると絵に注ぎたい集中力は途切れて仕事はまた遠退く。
世の中の絵描き達は家族や育児、地域との共存をどのようにのりこえたのだろうか?
子供がくれる幸せは何物もにも変えれない喜びがあるだけに腕が疲労してようが泣いてたら抱いてあやすのが習慣化してしまったのは自分の愛情表現が未熟だからなのだろうか?
今年を振り返ると怪我に泣かされた1年でもある。台風スウェルのビックウェーブに本気でチャージするには不完全過ぎた。
1月は雪山で足をもがれて普通に歩けるようになるのに半年以上もかかり、その後に悪化した右手は心臓を境に反対側にある足の怪我と痺れが治ってないのが原因と言う整体師の意見に納得できた。
波乗りは止められないので海に入る回数を極力減らしていた。
暮らす地域は100世帯の集落だが、ほぼ毎月何かの行事や祝い事があり、この3年間は屋根の下で安心して暮らさせてもらえることに感謝してフル参加する事で島の奥深さとあたたかな人情にふれ家族一同みなさんに良くして頂き嬉しくて、つい無理をして手伝い腕に更に負担をかけてしまっていた。子守時間も増えて仕事の時間は更にタイトになっている中で人から頼まれたら断れないという自分の甘さがまた身を滅ぼす前に家族の為にも己の身は自立して護り生きて行かねばならない。
生業の作品制作においては何にも増して身勝手にさせてもらう事なのかもしれないが地域に存在し家族と安心して屋根の下に暮らす為に色々と気を巡らすことになるのはやはり愛する家族の為だ。
己の仕事は表現することで金など考えては出来ない仕事だけにハワイではホームレスになって本質へと向き合ってきた。5年もすれば身体はボロボロになり健康を失ったら生きていけない事を学んだはずなのに。。
その前は15年以上も金に支配されたデザイン業界で死ぬ気で働いたら過労で本当に死にそうになってしまい余命3カ月の宣告で人生の目的や当初の夢を現実にするのにチカラを注がねば生きている意味がないと分からせてもらえたのは不幸中の幸いで限界まで突っ込んだからこその今がある。
昔、西洋の文化が日本に入ってきた頃、ARTの訳語は藝術でなく生きる術だったそうだ。
絵を描き表現する事は己の生きる術に他ならない。
三つ子の魂百までは本当だろう。
生涯を通して腕を磨き夢を描いて魂を自由に解き放ちたい。
夢を現実にするのに必要な事も沢山ある。
その中でも大工仕事は知りたい事柄や技術に溢れており、いつかアトリエや家を自分で建てたいと想っている身には現場で学べるチャンスでもあり協力依頼を断りたくないのも本音だ。
10代を境に室内のクリエイティブワークの現場で身を削っていた為に過酷な肉体労働をしてこなかったお陰で自分の手首は特に弱くなってしまったかもしれないが、生まれつきもともと手首が細く1本の線は美しく描けても力仕事には向かない手のようだ。だからなのか殴り合いも喧嘩も進んでする気になれないが商業仕事では競合上等ガチで勝負する生き方だった。今は大資本のデザイン業務から遠ざかり個人的な想いを純粋に描き表現して、それを心底欲しいという方に届けるシンプルな世界に生きている。魂が癒されたのかお陰で昔のようなケツから血がふきでるような酷い症状には殆どならなくなった。
身体の劣化原因はアクティビティーを攻め過ぎての自業自得もある。スケートボードで攻めてはコケて手首痛め怪我の連続、スノーボードでは空を攻め過ぎては着々で大ゴケして何回もあちこち怪我し、サーフィンが拠り所となってもまだ手首を酷使し続けている。
しかしサーフィンや横乗りがくれるインスピレーションは計り知れず創造の源のひとつであり毎日の生活に欠かせない事として共にあるので上手い付き合いをせねば笑顔でいられなくなる。
この数年で手の痛みの原因を探せば1番直接的なのはプリント作品を額装するフレーム加工においての力仕事だ。複製のプリントであっても価格以上の満足感を持ってもらいたい想いでオリジナルな加工方法に拘り手をかけ過ぎて制作していたが自分の作り手としての満足はまだまだ出来ない。しかし拘りのフレームは原画に付けるのを優先せねばならないはずだし、原画を描いてナンボの人が複製の枠で手を痛めていたら身も蓋も無いのだから何にチカラを注ぐかは大事な事だ。
最近は同世代の友人達から体調不良や怪我の回復が遅いとよく話に聞くようになり我が身だけではなくそういうお年頃になったのだと自覚せねば危うくなってきた。
去年の年末はどデカイ屋根の雨漏り直す突貫工事で両手をカナリ消耗させてしまったけど今年の屋根の手伝いは1日で終わったのでホッとした。
自分についてる身体のパーツは値段などつけれない尊い授かり物なので大事にせねば。
iPhoneでこんなに長文かいてまた手を疲れさせてしまった。
今夜も安心して屋根の下で寝れる幸せを味わい眠ろう。
手や足が無事に治りまた元気に動けますように~
限界へ挑戦したくなる性分は変わらないだろうけれど…
世間でゴミと扱われるモノも見方によっては素敵な存在になるし、捉え方によっては足元にあるのは可能性に溢れた美しい神秘な世界だ。
人はカルマを背負う生き物だからこそ輪廻転生や因果応報があるのだと想う。
身から出た錆を何色にでも変える事ができるのは人間だけなのかもしれない。